所在地
東京都新宿区若葉
概要
正式名は獨鈷山光明寺愛染院で、真言宗豊山派の寺。空海(弘法大師)ゆかりの寺を巡る御府内八十八ヶ所霊場18番札所。 『群書類従』、『続群書類従』の編者として名高い国学者・塙保己一(はなわほきいち)の墓、内藤新宿を開設し、問屋・本陣を経営した高松喜六の墓があります。
現地説明板
新宿区指定史跡
高松喜六の墓
所 在 地 新宿区若葉二丁目八番地
指定年月日 昭和五十九年七月六日
内藤新宿の生みの親高松喜六は、もとは喜兵衛といい浅草の名主であった。 喜六は、当時甲州街道の最初の宿場が日本橋を出発して四里余り(約十六キロ)の高井戸であり、大変不便であったので、 元禄十年(一六八七)に同志四人とともに幕府に、内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する請願を提出した。
翌年許可がおり、喜六は宿場開設資金五六〇〇両を納め、問屋・本陣を経営した。 喜六は正徳三年(一七一三)八月に没したが、高松家は代々内藤新宿の名主をつとめた。
墓石は多可さ八〇センチで、右側面に「内藤新宿開発人高松金八友常」と刻まれている。
新宿区指定史跡
塙保己一の墓
指定年月日 昭和五十九年十一月二日
「群書類従」の編者として名高い江戸時代中期の国学者塙保己一は、延享さんねん(一七四六)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれた。 姓は萩野、幼名は辰之助といった。
五歳で病にかかり、七歳で失明したが、十三歳の時江戸に出て雨富検校須賀一の門下となり、その本姓塙をもらった。
優れた記憶力を認められて学問を許され、国学・漢字・和歌・医学などを学んだ。 特に国学では加茂真淵に学び、造詣を深めた。
天明三年(一七八三)に建康となり、水戸藩の『大日本史』の校正なども手掛けたが、寛政五年(一七九三)には和学講談所を開設し、幕府の援助も受け、書籍の収集と門人の指導にあたった。
文政二年(一八一九)に『群書類従』を完成させ、同四年には惣検校となったが、同年九月に『続群書類従』の編纂なかばで没した。 享年七十六歳であった。
墓所は、最初近くの安楽寺に造られたが、明治三十一年(一八九八)に廃寺となり、愛衆院に改葬された。 墓石は高さ一〇三センチである。
平成二十四年六月
新宿区教育委員会
フォトギャラリー
クリックすると拡大表示されます。
- 愛染院
- 説明板
地図
広告
-
準備中
参考文献
編集メモ
写真撮影日 | 最終リンク先確認日 |
---|---|
|
|