所在地
東京都世田谷区給田
概要
この一里塚は、明治3年(1870)に内藤新宿を基点として甲州街道に築造されたという新一里塚で、 世田谷区と調布市の市境に近い旧甲州街道沿いの民家の敷地内に、里程標と世田谷区教育委員会による説明板が建てられています。
現地説明板
里 程 標(新一里塚)
銘 文
(正 面)内藤新宿より三里 品川県
(左側面)内藤新宿より三里 品川県
(背 面)明治三庚午八月 武蔵国多摩郡給田村
(右側面)内藤新宿より三里 品川県
年 代
明治三年(一八七〇)
伝来
甲州街道には、江戸時代日本橋を基点とした一里塚が、四キロメートルごとに築かれていた。
この里程標は、明治三年に内藤新宿(現新宿御苑内にあった高遠藩内藤家下屋敷)を基点とした甲州街道に建立された新一里塚で、記録によれば芝生に覆われた三メートル位の塚の上に建てられてあったという。
この標石は、上馬一丁目の前田鉄郎氏によって保管されたのち、昭和五十一年十二月、同氏から世田谷区立郷土資料館に寄贈された。その後、同五十九年二月、元位置に近い現在地に復元した。
碑文にある「品川県」とは、明治二年布告された「府県施政順序規則」により荏原郡、豊島郡の半分および多摩郡の一部を含めた地域をいう。 なお荏原郡の一部であった現世田谷区の旧井伊領は「彦根藩」、後に「長浜県」と名付けられたが同五年には東京府となり品川県はなくなった。
昭和六十年三月
世田谷区教育委員会
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- 新一里塚碑
- 新一里塚碑説明版
地図
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準備中
参考文献
編集メモ
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