甲州街道紀行

No.204「布多天神社」

< No.203 蓮慶寺
No.204A 布多天神社参道 >
所在地

東京都調布市調布ケ丘

概要

布多天神社の創建はあまりに古く定かではありませんが、延長五年(927年)に制定された「延喜式」という法典にその名を連ねる、多摩地方有数の古社で、社伝によれば第十一代垂仁天皇の御代、約1940年前の創建といわれております。 文明九年(1477年)に多摩川の洪水をさけ、古天神というところより現在地へ遷座され、その時に、御祭神、少彦名命(すくなひこなのみこと)に菅原道真公を配祀されました。 江戸時代に甲州街道が作られ、上石原、下石原、上布田、下布田、国領の五宿ができ、布田五宿と呼ばれました。 当時、布多天神社は布田五宿の総鎮守であり、五宿天神と崇め祀られておりました。 そして布田五宿は、明治二十二年に飛田給、上ヶ給と合併して調布町となり、当社は調布町総鎮守となりました。

現地説明板
延喜式内 布田天神社

省略

当神社は延喜式(第六十代醍醐天皇の延長五(九二七)年に制定された法典)大久間に名を列ねる多摩郡でも有数の古社である。 もと多摩川畔の古天神というところにあったが、文明(一四六九~八七)年間多摩川の洪水を避けて、現在地に遷座された。 其の折、祭神少名毘古那神に菅原道真命を配祀したと伝えている。

社伝によれば住古、広福長者という人が当社に七日七夜参籠して神のお告げをうけ、布を多摩川にさらし調えて、朝廷に献上した。 これが本朝における木綿の初めとされる 帝この布に調布(テツクリ)と名づけられ以来この辺りを調布の里とよぶようになったという。

本殿は宝永三(一七〇六)念、覆殿は昭和四十年、幣殿拝殿向拝は昭和六十年の造営にかかる(社殿約七十二坪)。 毎月二十五日の例祭日に奉納神楽があり境内には市がたち参拝者で賑わう。末社に金毘羅神社、稲荷神社、御嶽神社、祓戸神社、疱瘡神社、大鳥神社、厳島神社がある。

省略

平成二十四年九月二十五日

布田天神社 宮司謹記

布田郷学校跡

郷学校とは、江戸時代中期ごろから明治時代前期にかけての教育機関のことで、寺子屋や私塾より公共性が高く、近郷でも数校を数えるにすぎない特色ある教育施設であった。

布田郷学校はそのなかの一つで、上布田の住人 原豊穣の設立した育英学校を、明治四年(一八七一)栄法寺を公社として開設された。

栄法寺は、大正四年、町内の他二ヵ寺と合併して現在の大正寺と改名されたが、山門、本堂は寺域の北にあった栄法寺のものを今の位置に移築したものである。

布田郷学校は、発足するにあたり、原豊穣等五宿の有力者たちが中心となって、近隣の村々の協力を得て開校したものであるが、 この郷学校は養豚所を経営することによって得た収益を学校の運営費にあて、授業料等を一切とらなかったという特色のある学校であった。 養豚所の経営不振から明治七年閉鎖し、公立布田学校(現在の第一小学校の前身)となるまで、公立学校に代わる重要な役割を果たしてきた。

平成二年三月二十六日

調布市教育委員会

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地図
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参考文献
編集メモ
写真撮影日 最終リンク先確認日
  • 2021/02/06
  • 2021/06/15