所在地
東京都調布市上石原
概要
近藤勇は新撰組の局長で、ここ上石原宿が故郷です。 さらに西光寺は、甲陽鎮撫隊で近藤勇が甲州に向かう時、休息を取った寺です。 大きな像は近藤勇没後130周年の記念行事として建立されました。 近藤勇座像の左横には西南戦争で戦死した地元の人々の招魂碑があります。
現地説明板
新選組局長 近藤 勇
近藤勇は天保五年(一八三四年)武蔵国多摩郡上石原村(減調布市野水一ー六)宮川久次郎の三男として生まれ、幼名勝五郎、幼い頃より武芸に親しみ、嘉永元年天然理心流近藤周助に入門、 翌二年近藤家の養子となり、文久元年天然理心流宗家四代目を襲名、府中六所宮で襲名披露の野試合を行った。
文久三年、幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新選組を結成、局長として洛中の治安の維持にあたる。 中でも元治元年六月浪士達が画策した京都の大惨事を未然に防いだ功績で、幕府と朝廷から恩賞を受けた池田屋事件での活躍はあまりにも有名である。
然しながら世情の移り変わり激しく、慶応三年将軍徳川慶喜は大政を奉還し、翌四年の鳥羽伏見の戦いに破れたので、傷心のうちに幕艦富士山丸で江戸に帰った。
その年三月、近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を交付に向けて出陣した。 途中思い出多い故郷上石原では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遥か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名手中村勘六家で歓待をうけたのち、 多くの村人に見送られながら出立し村境まで歩いた。 天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾ることはできたが、戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦いに敗れ慶応四年四月下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として西軍に出頭、 同月二十五日江戸板橋で刑死、時に僅か三十五歳波乱万丈の生涯を閉じた。
会津藩主、松平容保は【貫天院殿純忠誠義大居士】の法号を贈りその功績を称えている。
調布市『近藤勇と新選組の会』は、没後百三十年を記念し、近藤勇座像建立委員会を設け、近藤勇に関わる史実と史跡を末永く伝えるとともに、 調布市の観光事業の一助になることを願い甲陽鎮撫隊所所縁の地西光寺に坐像を建立することとした。
奇しくも、人々の安全を守りながら甲陽鎮撫隊をも見送った常夜灯、公武合体を勝ち取るため一身を捧げた近藤勇像、 西郷隆盛らが明治政府に反旗をひるがえした西南戦争に従軍した地元出身の人々の招魂毘がここに集設されたことは、改めて歴史の流れを伝えるものとして意義深い。
平成十三年十月八日
近藤勇座像建立委員会 代表 圡方 貢
発起人一同
フォトギャラリー
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- 近藤勇座像
- 近藤勇座像説明版
- 招魂碑
- 近藤勇座像看板
地図
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準備中
編集メモ
写真撮影日 | 最終リンク先確認日 |
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