所在地
東京都調布市飛田給
概要
飛田給薬師堂の本尊は、元仙台藩士の松前意仙が諸国を遍歴した末に、ここを生涯の地と定めて庵を結び、医業のかたわら仏道に志して人々を救済するため、自ら石の薬師尊を刻んだものです。 尊像完成の後、傍らに穴を掘り、その中に入って鉦をたたきながら、お経を唱えて、そのまま入定(死去)しました。 江戸時代元禄5(1702)年のことです。 薬師本尊開眼の貞享3(1686)年から三百年にあたる、昭和61年9月12日に意仙の遺徳を伝えるため、飛田給自治会薬師尊奉賛会が建てました。
現地説明板
市指定有形民俗文化財(民俗)
飛田給石造瑠璃光薬師如来立像
所在地 飛田給一丁目二十五番地 薬師堂
指 定 昭和四十九年七月十二日
この製造が「飛田の原の石薬師」と言われ、庶民信仰の対象となっているものです。 江戸時代初期、貞享年間(一六八四~八七)に、元仙台藩士の松前意仙により造立されました。
松前意仙は、諸国を巡り歩いたのち、ここ飛田給を生涯の地と定めて庵を結びました。 医業のかたわら、信仰する薬師如来の功徳をもって、人々を悟りの境地に導こうと、自らこの像を刻んで安置したと伝えられています。
像身は一四〇㎝の立像で、左手に薬壺をのせ、右手は施無畏印を結び、慈悲に満ちた表情をしています。 背面には「施主為松前意仙行重二世安楽 貞享三丙寅四月十六日」の刻銘があります。
はじめは野外に置かれていましたが、弘化四年(一八四七)に仏堂が建てられ、堂内に安置されるようになりました。
平成二十四年十一月三十日
調布市教育委員会
飛田給薬師堂由来
今から三百年の昔貞享(一六八四~八四)のころに仙台伊達家の忠臣松前意仙行重なる人が諸国行脚のおりこの地に足をとどめ庵をむすび医業のかたわら仏道に志し衆生を済度し慈悲深き日々を送られた その後自ら瑠璃光薬師如来の石像を刻み完成したのち入寂された 意仙師の感化は里人はもとより近卿にもおよびその慈悲の深さに人々は碑を建てて信仰にはげんだと伝えられている
上石原西光寺過去帳の十二日の忌日に元禄十五年松前意仙庵正月医師と記されている 今日なお毎月十二日の命日には尊像の前で祝讃が詠唱され多くの参拝者で賑わい薬師尊奉賛会が組織されその保全にあたっている
昭和四十七年七月薬師堂と行人塚改修のおり土中にねむる遺骨が発見されが伝説の意仙氏の遺骨と思われた よって調布市文化専門委員会に視察を仰ぐとおもに専門的調査を実施した結果遺骸の状況から土中入段の伝説とほぼ一致していることが確認された 松前家は〇海道松前城主蠣崎伊豆守慶広の七男安広が初代で元和年中(一六一五~二三)白石城主片倉家に倚り伊達政宗公に仕えて忠勤を現し 伊達家準一家に列せられ安広の長男景長は片倉家の養嗣子となり大三大白石城となった 二男広目が松前家を継ぎ仙台騒動の除は綱村公の傅であった意仙氏はこの兄弟に列するのではなかろうかと推察される
なお 昭和四十八年五月十二日~十三日にかけ飛田給自治会の代表が宮城県白石市におもむき同市文化財保護委員会長片倉信光氏(白石城主片倉十郎十五代当主)を訪ねた
ここに松前意仙師の遺徳を伝えるためその由来の大要を記す
昭和六十一年九月十二日
フォトギャラリー
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- 飛田給薬師堂
- 飛田給石造瑠璃光薬師如来立像説明版
- 飛田給薬師堂由来説明版
地図
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準備中
参考文献
編集メモ
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