甲州街道紀行

No.75「桜田門」

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所在地

東京都千代田区皇居外苑

概要

外桜田門は1620年に東国大名の助役により石垣と枡形が完成しました。1636年(寛永13年)には修築されて現在の形式になりましたが、関東大震災で破損してしまいます。 その後再び大補強工事によって修築され、1961年(昭和36年)、国指定重要文化財に指定されました。

現地説明板

重要文化財(建造物)指定 昭和三十六年六月七日

旧江戸城 外桜田門

現在この門は桜田門と呼ばれますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました。 古くこの辺りを桜田郷と呼んでいたことに由来します。

外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外桝形という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られました(三二〇坪)。 建築されたのは寛永年間(一六二四~四四)とされ、現存する門は寛文三年(一六六三)に再建された門がもとになっています。 大正十二年(一九二三)の関東大震災で破損し、復元されました。

万延元年(一八六〇)三月三日、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました(桜田門外の変)。

旧江戸城と外桜田門
「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)
外桜田門

桜田の名は、この地が古代に桜田郷と呼ばれていたことに由来し、江戸の主要道が通過する場所でした。 徳川家康入国直後の絵図には「小田原口」と記載されています。 門周辺の石垣は、1614年(慶長19年)真壁藩 現在の茨城県)藩主浅野長重によって築かれ、寛永年間(1624~1644)に門が建設されました。 門の周囲には、有力外様大名の屋敷が多くありました。

1860年(万延元年)の桜田門外の変は、彦根藩(現在の滋賀県)藩主で大老の井伊直弼が屋敷から登城中に水戸浪士に襲撃された事件です。

1923年(大正12年)の関東大震災で門が壊れましたが、再建され現在に至っています。

千代田区

外桜田門
「旧江戸城写真帖」1871年(明治4年)撮影
東京国立博物館蔵
外桜田門から桜田堀方面を描いた
江戸初期の錦絵
「東京三十六景 外さくら田」
千代田区教育委員会蔵
江戸城を取り巻く地形と文化財
フォトギャラリー

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地図
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参考文献
編集メモ
写真撮影日 最終リンク先確認日
  • 2021/02/04
  • 2021/03/05