甲州街道紀行

No.157「子育地蔵尊」

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No.158 牛ケ窪地蔵尊・道供養塔 >
所在地

東京都渋谷区幡ケ谷

現地説明板

幡ヶ谷一丁目一番八号

子育地蔵尊

地蔵信仰は八世紀から行われていますが、地蔵とは民衆の苦難を除き、福利を与えることを願いとする仏のことです。 ときには、身代わりとして現れ、ときには、地獄に落ちた民衆を救ってくれるとも言われています。 また、子どもの安全や成長を見守ってくれる仏であるとか、様々に救いの手を差し伸べてくれる仏と考えられていました。

このあたりの低地を昔から地蔵窪と呼んでいたのは、この地域に由来するようです。

江戸時代の貞享三年(一六八六)に造立されたことが、銘により確認できます、この場所に移動する前は、この建物すぐ前にお堂があり、そこに安置されていました。

ところが、甲州街道の拡幅に伴って、この場所にあった大ケヤキのあとに移されました。 現在は、大勢の人びとの浄財によって立派なお堂がつくれています。

渋谷区教育委員会

幡ヶ谷子育地蔵尊

幡ヶ谷地蔵窪子育地蔵尊は今より凡そ三百年前貞享三年十月十五日(西暦一六八五)年こゝ甲州街道と旧大山街道の一角現在の渋谷区幡ヶ谷一ノ一地蔵窪に建立されたのであります。
一菩薩である地蔵尊は地は万物を生し種子を成長させる偉大な功徳力を蔵し菩薩の衆生救済は大地の如しと言われます。 現世に安隠と利益を与え六道の衆生を解説へ導く菩薩であり幼兒の安泰を守り苦難の身代わりに出現されたものとして広く一般に流布され今尚広汎に信仰をあつめつゝある由来であります。
堂宇内に御安置される石造地蔵尊三体は貞享、元禄、正徳の年号が刻まれ往時より信仰と尊宗のまとゝして三百年来の伝統を守りつゞけ 地蔵尊のうちでは最も古く大空にそびえた大挙と共に甲州街道の史蹟として又は渋谷区の文化財として貴重な存在であり毎月四日の供養には縁日露店も出展され国道の一風物詩を添えたのであります。
偶ぐ々昭和四十二年六月国道拡幅の事業決定により昭和二十六年地元有志により改築された旧お堂は敷地と共に 同四十四年五月収用撤去せられ惜しくも切つた大挙の跡地を含めて僅か六坪強が残地となつたのであります。
この狭隘な土地を活用し由緒ある地蔵尊堂をいかに再建するかにつき地域関係者相寄り協議した結果昭和四十五年八月子育地蔵尊堂再建委員会を発足、 設立いたし諸般の準備活動にはいつたのであります。
古く徳川時代より明治、大正、昭和と先人より受けつかれ守られて未た地蔵尊をこの機会こそ立派に再建致し三百年の歴史と土地環境をも考慮して周辺の道標ともなり 地蔵尊のランドマークを如実に表現するよう上部に相輪を付して尖端まで約二十七米の高さとなし荘重な美しさの中にも時代の要請にこたえ得るよう地蔵塔として設計されたのであります。
内容施設は渋谷区役所の公害に対処する測定計器を配し又時報をかねてチャイムを装置するなど外観、内部施設共に後世に残す意義あるお堂として立派に再建すべく計画配慮されたのであります。
建設資金については収用補償金を基金とし子育地蔵尊堂再建委員その他地域篤志の方より淨財を仰いだのであります。
建設工事は鳥居徳敏氏の現設計、株式会社石本建築事務所の実施設計及監理により戸田建設株式会社の施行になるもので昭和四十六年十二月着工翌年四月末竣工致したのであります。
思えば設計、監理、施行共兩社の献身的協力の賜ものにより完成されたものであります。
三百年の歴史を偲び気忙わしき人生に思いをはせ将来の希望を語るとき必ずや御俤の加護により心身ともにこの上なき安らぎにみち溢れる時を期待するものであります。
子育地蔵尊堂落慶にあたり一文なして経過報告となし篤志の方々建設関係皆様の芳名を記して地蔵尊の許に蔵し現世において家門の吉利、 百災の禍を除した疫病を免れ一切の願望皆悉く円成の功徳を得るように祈願して心より感謝申し上げる次第であります。

昭和四十七年五月吉日

合掌

幡ヶ谷子育地蔵尊講

講元
再建委員会委員長 村田長三郎

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編集メモ
写真撮影日 最終リンク先確認日
  • 2021/02/06
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