甲州街道紀行

No.159「清岸寺」

< No.158 牛ケ窪地蔵尊・道供養塔
No.160 笹塚跡 >
所在地

東京都渋谷区幡ケ谷

概要

当寺は1640年(寛永17年、「浄土宗寺院由緒書」による)専蓮社覺譽呑了上人(1647年寂)によって建立されました。 清岸寺(龍池山不断院)はもと参宮橋南側にありました。 1909年(明治42年)、住僧なく荒廃した、現在地にあった法界寺(寛永元年起立、開山は傳譽順良、1630年寂)と合併し。 参宮橋から当地へ移転したのは敷地が陸軍省に買い上げられ代々木練兵場が同所に設けられることになったためです。 法界寺と清岸寺が合併したことから法界山清岸寺と改称されました。

現地説明板

幡ヶ谷に丁目36番1号
浄土宗 法界山 清岸寺

水上忠蔵先生追慕碑

この追慕碑は、幡代小学校の前身である白水分校の教員で、幡代小学校の開校と同時に教員として迎えられた水上忠蔵先生の教え子が、明治四十五年(一九一二)四月七日に建立したものです。 このたび、幡代小学校の開校百三十周年にあわせて説明板を設置しました。

先生は、幡代小学校の開校と同時に教員として迎えられましたが、生徒の指導はもとより、校長をよく補佐し、幡代小学校には、なくてはならない存在でした。

また、教育に関しては、とても厳格であったようです。 先生の没後、二十年余を経過しましたが、教え子たちは先生に対する尊敬や親しみを思い出し、それを後輩たちに残すことを目的として、清岸寺の境内にこの追慕碑を建立しました。 先生は、明治二十四年(一八九一)一月十八日に六十一歳でなくなりましたが、先生と生徒の結びつきや愛情の深さを知ることができます。

渋谷区教育委員会

念 紀

往年、代々木練兵場設置せらるゝに当り、当山寺域収用せられし為め、此地に移りてより星霜正に二十年。 当時鶏犬僅に相答へ、炊煙稀に薄かりし村落、今や屋甍連り、軒楹接する街衢となり、田圃・林野、寸地も旧態を止めさるに至る。 滄桑の変、実に驚くに堪へたり。 四隣発展の状勢、夫れ此の如し。 清岸寺の寺運亦隆々として頓に興り、壇越の契盟彬瓶々として日に加はり、倍増して三百有余を算するに至れり。 茲に本年四月、花咲ひ鳥歌ふ好季を卜し、恭しく移転二十週年紀念の法会を脩建し、謹て仏祖の洪恩に酬答し、国家安穏、宗運招隆、寺門清寧、壇越福利を祝祷し、碑を建て名を刻して以て後昆に遺す。 銘云、

皇城の西 幡谷の丘 亭々たる長松 四時清々として翠色を改めず 直直たる溝渠 清流淅々として昼夜を捐てず  清岸寺の法灯 高く懸りて常住の光滅ゆることなきは 松樹の高く秀でゝ歳寒に凋まざるが如く  法脈長く流れて不断の水絶ゆることなきは 上水の流れ流れて市民の生命となる如くならむ

昭和三年四月廿八日    清岸寺 四十二世 定誉常順代

中谷在禅撰并書

幡ヶ谷に丁目36番1号 浄土宗 法界山 清岸寺
国指定有形文化財 平成二十四年十一月二十二日

清岸寺本堂

清岸寺本堂は、明治三十二年(一八九九)頃に千葉県岩井町市部(現南房総市)の今村正次が建てたもので、通称岩井御殿と呼ばれていました。 昭和二十年(一九四五)の空襲により本堂を失った清岸寺は昭和二十四年にこの岩井御殿を譲り受け、同二十六年に移築してきたのです。

本堂は、単層切妻造の瓦葺で、南側に面して建てられています。 本堂は仏間のある西側の六室が中心であり、東側三室の付属部からなっています。各部屋の境界には大きな鴨居が設けられ、襖あるいは障子が立てられています。 全体には一間幅の広縁が廻り、南側には主体部中央に二.五間幅の付属部分、その前方には四間幅の玄関が付きます。 もともとの建物の部材の痕跡から、住宅を仏堂移築・改造したときに、仏間部分を立派にするために、柱がスギから太いケヤキに交換されたことがわかります。

移築後は、昭和四十五年ごろに瓦の葺き替えが行われたほか、現在にかけて順次、主体部と付属部との境界の修造、付属部の客用玄関の拡張、脇陣天井の修造などが行われました。

清岸寺本堂は、住宅を仏堂に転用した事例として、かつ明治期における高級な住宅の姿を知ることの出来る事例として貴重な建造物といえます。

渋谷区教育委員会

幡ヶ谷に丁目36番1号
浄土宗 法界山 清岸寺

酒呑地蔵

子の地蔵は、江戸時代の宝永五年(一七〇八)に本村に建てられ、別名を子育地蔵ともいわれますが、次のようないい伝えがあります。

むかし、四谷伝馬町に住む中村瀬平という若者は、故あって家を出て幡ヶ谷村の農家にやとわれて農作業や子守など一生懸命に働いたといわれています。

瀬平の勤勉さに感心した村人は、三十一才になった正月に彼を招いてご馳走したところ、ふだんは飲まない酒によった瀬平は川に落ちて水死してしまいました。 瀬平は村人の夢枕に現れて、この村からお酒に苦しむ人を助けるために地蔵を作ってほしいと願ったので、村人たちは早速一基の地蔵を建立し、酒呑地蔵としてお祀りして来ました。

平成二十三年一月十日に本町五丁目の地蔵橋のたおとから清岸寺に遷座し、二月十九日に開眼供養が行われました。 新たなお堂も建立され安住の地となりました。

渋谷区教育委員会

フォトギャラリー

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地図
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参考文献
編集メモ
写真撮影日 最終リンク先確認日
  • 2021/02/06
  • 2021/04/01