甲州街道紀行

No.20「福徳神社」

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所在地

東京都中央区日本橋室町

概要

福徳神社の創祀された時は明らかではありませんが、伝わる略記によると、貞観年間(清和天皇・860~876年)には既に鎮座していたといわれています。 武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって社号となりました。 五穀主宰の神、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が祀られていました。

現地説明板
本町通りと町年寄喜多村家

本町通りは、徳川家康 が江戸の町造りに着手した時から江戸の中心となっていました。 天正18年(1590年)関東に転封となった家康は、浅草に抜ける本町通り沿いに金座や町年寄の屋敷地を下賜しました。 現在の天伝馬本町通り(当敷地北側の通り)です。関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603年)更に「天下普請」を開始し、新橋から神田まで南北に貫く目抜き通りを造りました。 これが現在の中央通りで、このとき日本橋が架けられました。翌慶長9年(1604年)日本橋に五街道の起点が設定され、北に向かう中山道と日光街道はこの交差点で分岐し、 日光街道は本町通りをとって東に向かいました。天正から慶長の城下建設で、奉行衆の下で市街地造成と町割りなどに携わった樽屋・奈良屋・喜多村の三年寄が江戸の町政を担うようになりました。 喜多村家の役宅は当ビルの敷地にあり、初代彦右衛門の出身は加賀(金沢)だと伝えられています。

浮世小路と料亭百川(ももかわ)

福徳神社南側の通りは、江戸時代「浮世小路」と呼ばれていました。 延宝期(1673〜81年)の『江戸方角安見図』には「うきよしやうじ」と記載されています。 小路と呼ぶのは、この地に屋敷があった町年寄喜多村家の出身地、加賀の方言によって発音されていたことを示しています。 浮世小路の東端北側には、落語噺の舞台としても知られる料亭百川があったとされています。 百川は江戸屈指の料理茶屋として繁盛し、幕末にペリー艦隊が来航した時には、乗組員全員にすべて自前で本膳を提供したほどの力がある料亭でした。 小路にあった福徳神社は小さいながら、遠い平安時代前期からこの地に鎮座していたといわれる由緒ある神社です。 徳川家康をはじめ歴代将軍から厚く崇敬されましたが遷座や敷地の縮小を繰り返して、今日にいたりました。 縁起の良い名前もあって、江戸時代には氏子である瀬戸物町や伊勢町等の商人達から多くの信仰を集め、富くじ興行でも大いに賑わいました。 ここ室町をはじめ日本橋地区で働く人々やこの地を訪れる人々が、福徳神社を中心に集い交わる場となることを願い、新たに広場と中央通りからの通路を設け、 それぞれ「福徳神社広場」、「新浮世小路」と名付けました。

フォトギャラリー

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地図
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参考文献
編集メモ
写真撮影日 最終リンク先確認日
  • 2021/02/04
  • 2021/03/01